彼女が意識していたもの〔2〕―ホンの幸せ(氷室冴子)
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「氷室冴子といえばコバルト文庫、すなわち少女小説」というイメージはかなり強いと思うのだけど、このエッセイを読むと、氷室さんは少女小説家に、なるべくしてなった人だと思わずにいはいられない。
“ベルばら”を高校時代にリアルタイムで読んで感銘を受けているのをはじめ、萩尾望都や花郁悠紀子といった少女まんが作品にどっぷり浸かり、吉屋信子の小説を繰り返し読んでいたような人なのだ。
そんな氷室さんが少女小説家として売れっ子になって受けるようになったインタビューのエピソードに、わたしは目を疑った。
だってね。
いやー、作品は読んでないんですけどね |
と前フリされて、
やっぱりスゴく売れてるんでしょ |
と、言われていたというんですよ!? インタビューしにきたくせに、インタビュー対象者の作品を「読んでない」といけしゃあしゃあと言ってのける神経って、どういうことなんですか!? と。
そのほかにも、
「あなたもいい鉱脈をみつけたじゃないですか」 「ああいう小説って、やっぱりアレでしょ。処女でなきゃ書けないんでしょ」 |
などとも、言われ続けていたらしい。失礼とか無礼とかいう言葉じゃ足りないほどの、はっきりいってセクハラ込みの嫌がらせ発言だ。繰り返すけど、インタビュアーがこんな暴言を吐いているんですよ? これを書かれた頃から察して、おおよそ20年くらい前のことなんじゃなかろうか。
エッセイでは、こうしたヒドいインタビューを激しく吊るし上げるわけではなく、「まあ、年とともに根性が座ってきて、傷つくのを忘れてしまった年代に突入したようで、それはそれで悲しいような……」と、とぼけた感じの、ちょっと自嘲的なおかしみまで漂わせながら語りつつ、だがしかし、
私も十五年間、若い女の子向けの読物作家をやってきてキッパリ断言するけど、出版業界にははっきり階級制度が存在する。 この場合、世間を反映していて、女であり、子どもであるところの“少女”を読者対象にしている小説を書いている点で、“少女小説家”くらい、この階級制度の最下級に属するモノ書きもいない。(P106 太字は管理人) |
と、ピシリと言い切る。ここで、読んでいるわたしはハッとするのだ。
――もしかしたら、今はBL作家の先生方の中に、氷室さんのような思いを感じている人もいるのかもしれない、と。
大体、エッセイの中で氷室さんが鋭く言及しているけれど、少女まんがだって、“少女”が頭に付くだけで、「檻のむこうのパンダを見るよう」に扱われ、「少女の感性」とか「少女幻想」とかいったよくわかんない“特別”な言葉は奉られるけど、少年漫画と同一線上で、同じ言葉で語られることなどなかったというのだ。
私にとっては漫画=少女漫画が現実だったのに、ほんとの現実――すくなくとも新聞や雑誌=世間さまが漫画というときは、それは少年漫画や青年誌の、つまり男(の子)用の漫画のことを漫画というのであって、女の子が読む漫画をいうときは、キチンと“少女漫画”といわなけりゃならないということに、いやおうなく気づかされたわけだった。(P44 太字は管理人) |
という説明、どこからか氷室さんの苦々しい舌打ちが聞こえてきそうですよ。
少女小説家である氷室さんに無礼な質問を投げかけたインタビュアーが、一体何歳ぐらいの人だったのか、男性なのか女性なのかははっきりと書かれてはいない。でも、少女まんがを“評論”していた人は、いわゆる“文化人と呼ばれる大人の男性”であると書かれているので、小説家のインタビュアーも推して知るべし、というところかな。
今のBLは、昔のように耽美一直線じゃないし、昔ほど“少女”だけが読者というわけじゃないけれど、それでもやはり業界的には、“少女や若い女性向け”という認識なのではないだろうか。
しかも男同士でエロもあり、“大人の男性”の「いやー、オレはよくわかんないけどさ」指数はさぞかし高いんじゃなかろうかと勘繰ってしまう。エロでも男向けならわかるけどさぁ、みたいな。でも、「アレでしょ、結構もうかってるんでしょ」という興味は丸出ししつつ。
社会的に、現在は15年ぐらい前に比べたらセクハラなどの各種ハラスメントに敏感になって、表立って無礼な発言をする男性は多くないかもしれない。いや、BLは「男同士」であるがゆえに、同性である女性からも「よくわかんないよね」とにべもなく言われる可能性が高いと思うのだが、ままま、それはともかく、BL作家の先生方には、そんな無礼な発言に挫けないでと、心の中で声援を送りたくなったのだった。
さて、プロの小説家として身を立てているにも関わらず、オッサン(※推測)による失敬な場面に遭遇していた氷室さんが、フェミニズムに興味を持つのは当然のなりゆきのように思える。実際、エッセイの中でフェミニズムに触れられているのだが、ここで、
私が知っているフェミニズムは、J.アーヴィングが来日して講演した中で、フェミニズムに触れたことを、新聞で読んだことぐらい |
とケロッと言い放ち、
マスコミで揶揄されるフェミニストの女性像は好きじゃないし、そもそも群れるのは好きじゃないと思う |
などとアッサリと認める正直さが、とても好ましい。そして、フェミニズムに対する考え方についてこう説明するのだ。
ある時期の自分自身をとりまく混迷した現実を打開してくれた考え方に最も近い思想があり、それに対する友情と誠実をつくそうとすれば、私はフェミニズムを支持するといわなきゃいけないと思うんですよ。自分の美意識からいうと、そうなる。私にとってのフェミニズムというのは、そういう位置関係にあります。友情を感じている考え方であると。ヘンな言い方ですが、それが一番、実感にちかい。(P196 太字は管理人) |
「友情を感じている考え方」――すごく上手い表現だなぁ……と、思わず唸ってしまった。
――そうなんだよ、私も社会に出てどうやら一人前として扱われるようになってから、ちょこちょこ感じてきた割り切れない気持ちから、フェミニズムを意識するようになった。でも、フェミニズムに疑問を感じることもあるし、フェミ関連の書物を片っ端から読んでやろうと意欲満々なわけでもないんだ――そういうわたしの気持ちは、吸い寄せられるように氷室さんの「友情を感じている考え方」という説明に共鳴する。ここでも、
「そうそう、私もそう思ってたのよ。どうして、こんなにピッタリ同じこと、考えているのかなぁ」 とあらぬ錯覚、誤解 |
をしてしまったのだった。恐るべし、氷室冴子。
腐女子的アンテナに引っ掛かった部分を中心に感想を書いてきたけれど、そのほかにも、
■“貴・りえ破局”で垣間見えた30代主婦の保守的ともいえる“良識”と結婚に対する考え方への鋭い考察
とか、
■少し前の“負け犬”論争に通じるような独身女性の気持ち
とか、
■ポルノ小説の読み方
など、興味深いテーマがいくつも取り上げられている。そのどれもに、ある時はうなずき、ある時は感心し、ある時は考えさせられるのだ。
――このエッセイ、そしてもう一つお気に入りのエッセイ「いっぱしの女」を、この先40代、50代になって読み返した時、わたしは今と同じように「わかるわかる」とうなずいているかしら?
そう思うと同時に、どうしてもこう思わずにはいられないのだ。
――わずか51歳でお亡くなりになった氷室さんだけど、40代、50代の氷室さんの率直な気持ちが書かれたエッセイを読んでみたかった、と。
いやいや、これほどのエッセイなら、わたしが年を取って読み返した時も、新たな共感を感じているような気がするけどね。
