愛すべき娘たち(よしながふみ)
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(内容紹介)「女」という不思議な存在のさまざまな愛のカタチを、静かに深く鮮やかに描いた珠玉の連作集。オトコには解らない、故に愛しい女達の人間模様5篇。
「連作」なので、5編それぞれに主人公は設定されているのだが、すべてにつながっているのは、雪子。雪子が主人公の話もあるが、時に雪子の母・麻里が、時に雪子の友人・莢子が、時に麻里の再婚相手・大橋の友人に告白する女子大生・舞子が、時に雪子の中学時代の友人・佐伯が主人公となる。
斎藤氏が取り上げたのは、麻里の子ども時代が絡む第5話。それは、女学生時代に容姿のよさを鼻にかけたいけ好かない同級生のおかげで嫌な思いをした麻里の母親(つまり雪子の祖母)が、他人から賞賛されるほど可愛らしいわが娘・麻里に、「お前は出っ歯だからかわいくない」と幼い頃から言い続けてきたことによって、麻里は自分の容姿を「美しくない」と思い込んでいるという話だ。実際は麻里は、雪子から見ても相当に美しいのに。そして雪子よりも年若い夫・大橋も、臆面もなく「きれいだよ」とほめるにも関わらず。
――なるほど、確かにこれは、「女性らしさ=身体性への配慮」を、母親の個人的な価値観による言葉で支配された娘の話だ。これほどまでにきっぱりと効果が顕れるかはさておき、似たような記憶のある女性は、少なくないのでは……と思う。
ただ、この「愛すべき娘たち」の巧いところは、5編すべてが「母娘関係」をモチーフにしているのではないことである。ある女性は祖父の、ある女性は過去につきあった男性の、ある女性は父親から性的虐待を受けていたらしい同級生の、言葉によって縛められている……と思える。「言葉」がキーワードであることだけが、共通しているように思える。
実はこれを読んだ時、わたしは不覚にも泣いてしまった。どこで泣いたのかといえば、第5話ももちろんなのだが、莢子が主人公の第3話と、佐伯が主人公の第4話。莢子は恋愛できない女性であり、佐伯は苦しくても自立を維持するために働き続けようとする女性だ。もしかしたら、これを読んで涙ぐむ話は、よしながさんがいうところの「抑圧ポイント」が描かれているところじゃなかろうか――というのは、穿ちすぎだろうか。
これがBLなら、もしかしたら辛うじて泣かずにいられたかもしれない。女性が主人公だから、余計に心の弱いところを掴まれたような気がする。こんな作品を描けるなんてすごすぎる――!
――と思ったのは、斎藤氏も同じで、本文中に2回も取り上げているのは、ほかには萩尾望都さんの「イグアナの娘」だけ。相当、お気に召している様子だ。
斎藤氏は、なにも「愛すべき娘たち」だけを絶賛しているわけではない。三浦しをんさんとの対談でのよしながさんの発言を何度か取り上げているが、そのキーワードは以下の通り。
■抑圧ポイント
男の人の抑圧ポイントは一つだが、女の人の抑圧ポイントは一人ひとりバラバラだ
■恋愛教信者
少なくとも日本とアメリカにおいては最大の宗教は恋愛
どちらも、確かにパッとイメージしやすく、ハッとくるキーワードだった。斎藤氏は「抑圧ポイント」という表現を手放しで賞賛しており、確かに「誰かに劣等感を感じさせるような価値規範」(by斎藤氏)を、こんなに簡潔に表現した言葉は、ほかにないだろう。「恋愛教信者」にしても、恋愛最高!な風潮を「宗教」と言い表せるのは、ただごとではない。
よしながさんご自身は、フェミニズムを前面に押し出しているつもりはないようだが、もしも堂々とフェミニストを名乗られたとしたら、今すぐスカウトしなければならない人材だと思う。少なくとも、仮にわたしがフェミニズム論壇の最前線に陣取っている立場だとしたら、全国各地の美味を手に、速攻交渉に向かうのは間違いない。
冗談はさておき、しかしフェミニストを公言しなくても、よしながさんがやおいやBLが好き=腐女子だという時点で、無意識のうちにフェミニズムやジェンダー論に敏感になる素養があったということかもしれない。とはいっても、腐女子が全員、フェミニズムやジェンダーに敏感になるわけではないと思う。逆に、フェミニズムやジェンダーの論者が全員、腐女子になるわけでもない。ここら辺が微妙で複雑な感じ……。
ところで、「母は娘の……」で、「愛すべき娘たち」「イグアナの娘」以外にも、下記の少女マンガが象徴的に引用されている。
「ダイエット」(大島弓子)、「いつもポケットにショパン」(くらもちふさこ)
なんだかよしながさん以外、“24年組”など大御所の作品が目立つ。大体よしながさんだって、24年組作品から強い影響を受けている作家でもある。うーん?
そもそも、どうして「母は娘の……」で少女マンガが引用されているのかといえば、評論家・大塚英志氏の言葉を借りながら、斎藤氏はこう説明している。
「およそあらゆる表現ジャンルの中で、『母殺し』問題というテーマを、その発生当初から最も切実な主題としてきたのが少女まんがにほかならないから」(本文P98より)
もっとも大塚氏は、「母殺し」問題というテーマを主題としてきたのは「かつての」少女マンガだと主張しているようで、1990年代後半に相次いで出版された、少女マンガ家たちによる「出産コミック」について、
「かつて少女まんがというジャンルが澱のように自らの内部に抱え、その呪縛に苦しんでいたかのように見えた主題(=母殺し?)は決して清算されていないのに、出産コミックの書き手たちは、そうした主題があたかも清算されたかのように、あっけらかんと自らの母性を肯定している」
と、批判していたようだ。
――清算されていない主題を、あたかも清算されたかのように肯定している、なんて、なんだか初期BL(あるいはJune)と現在のBLを対比させた批判みたいだ。少なくとも、そういう不満を感じている読者はいるんじゃないかな……と、思う。
清算されていない主題は、永遠に清算されないのか。それとも肯定しているうちに本当に清算されたのか……。BLは、もしかしたら少女マンガが辿った道を、忠実になぞっているのかもしれない。
長々と引用しましたが、「母は娘の人生を支配する」関連のレビューはこれで終了です。おつきあいありがとうございました。
