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母は娘の人生を支配する(斎藤環) その1

 16,2009 23:47
「腐女子の兄弟姉妹関係」アンケート結果発表にいただいたコメントの中に、こんなものがあった。

以前「母親が自分自身の女性性に強く抑圧を感じていると娘にも自然とそれを強要する傾向がある」という説を何かで読みました。(みっとさん)

このコメントと非常に内容が近いと思われるのが、この本。

母は娘の人生を支配する―なぜ「母殺し」は難しいのか (NHKブックス)母は娘の人生を支配する―なぜ「母殺し」は難しいのか (NHKブックス)
斎藤 環

日本放送出版協会 2008-05
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(内容紹介)娘を過剰な期待で縛る母、彼氏や進路の選択に介入する母…娘は母を恨みつつ、なぜその呪縛から逃れられないのか?本書では、臨床ケース・事件報道・少女まんがなどを素材に、ひきこもり・摂食障害患者らの性差の分析を通して、女性特有の身体感覚や母性の強迫を精神分析的に考察し、母という存在が娘の身体に深く浸透しているがゆえに「母殺し」が困難であることを検証する。「自覚なき支配」への気づきと「自立」の重要性を説き、開かれた関係性に解決への希望を見出す、待望の母娘論。

そもそもこの本を手に取ったきっかけは、やおいや腐女子について少し触れられているため。そして表紙のイラストはよしながふみさんによるものだが、彼女の作品やコメント(三浦しをんさんとの対談での発言。この対談は恐らく、「あのひととここだけのおしゃべり」に収録されていると思う)もたびたび引用されている。というか、筆者の斎藤環氏は、この本をまとめるにあたって、よしながさんの作品やコメントにかなり触発されたんじゃないかと勘繰りたくなるほど。

しかし――実はこれ、昨年末から読み始めていたのだ。にも関わらず、ここまで引っ張ってしまったのは、ひとえにわたしの読解力不足ゆえ。さまざまな文献、そして小説やマンガ(とくに少女マンガ)などからの引用があちこちに張りめぐらされ、平易な文章で綴られているので、決して読みづらいわけじゃないのだけど、これが案外に手ごわい。わかったと思ったら気のせいだったり、斎藤氏の見解だと思っていたら引用文献だったりして、何度も読み返してしまったという次第。読みやすいからといって、ナメてかかってはいかんのだ……。

そんなこんなで、何とか自分なりにわかったと思うのだが、うまく短くまとめられなかったため、自分へのおさらいも兼ねて、分割してアップします。いきなり分割宣言ですみません……。

さて、この本の「母娘関係論」の特徴は、女性の「身体性」を軸にアプローチされていること。本文から引用するとこうなる。


女性性とはすなわち身体性のことであり、女性らしさとは主として外見的な身体性への配慮である。
■それゆえ女の子へのしつけは、男の子の場合とは異なり、他人に気に入られるような身体の獲得を目指してなされる
■このため母親による娘のしつけは、ほとんど無意識的に娘の身体を支配することを通じてなされがち
■身体的な同一化による支配において、母親は時に、娘に自分の人生の生き直しすら期待する
■こうした支配は、高圧的な命令によってではなく、表向きは献身的なまでの善意にもとづいてなされるため、支配に反抗する娘たちに罪悪感をもたらす。
■しかし、母親による支配を素直に受け入れれば、自分の欲望は放棄して他者の欲望を惹き付ける存在(「おしとやか」で「可愛い」女性)という「女性らしさ」の分裂を引き受けなければならない。
■それゆえ母親による支配は、それに抵抗しても従っても、女性に特有の「空虚さ」の感覚をもたらさずにはおかない

(本文P189より。冒頭記号、改行および文末調整、太字は管理人)


長い引用で恐れ入ります――しかしこれが、この本での斎藤氏の見解の要約であり、ほぼすべてだといっても過言ではないと思う。

「女性性」=「身体性」って、唐突に思えるが、例として挙げられた「しつけ」の違いが、とてもわかりやすかった。つまり、「男性らしさ」のしつけは「論理性」「潔さ」「筋を通す」「我慢強さ」など、観念的で抽象的になされがち。だが「女性らしさ」のしつけは、身なりやしぐさといった身体性においてなされる。なぜなら、精神分析的としての男性性とは身体を持たず、象徴的な意味での「本質」しか持たないが、精神分析的としての女性性とは、いかなる「本質」もなく、表層的なものでしかないから。それゆえに女性は身体を持つことができるのだ。例えば「女性らしさ」は、外見や所作などの身体性において表現されるが、観念的に考えようとすると、上の「男性らしさ」のしつけで挙げたものの否定か例外(「非論理性」「弱さなど)にしかならない。

そして、「女性らしさ」とは「(世間が期待する)母性」でもあり、「他者の欲望をより惹き付け、かつ要求に応える身体を持ち、他者に気に入られるような受身的存在」でありながら、同時に「やさしさや従順さといった態度でもって、自分の欲望は放棄する」ということである。こうした身体性を持つように正確に教え、しつけられるのは母親のみ。それが無意識的に娘を支配することにつながる――ということのようだ。

母親は「あなたのためよ」などと善意にもとづいて娘を支配する。しかも「女性らしさ」の観念はほとんど存在しないがために、母親が娘に教える「女性らしさ」とは、母親の個人的な内容や感情に基づくものでしかない。

そんな母親の支配から逃れようとした娘は、母親への罪悪感を抱え、支配を受け入れた娘は、「他者の欲望は受け入れなければならないのに、自分の欲望は捨てなければならない」という分裂を引き受けることになる。

――なんだかボロボロな感じだ。反抗しても従っても、全然ハッピーじゃない。わたし自身は母親との間に「ママは友達みたいな感じ。なんでも話すし、よく一緒にショッピングや旅行に行くんだ~!」的な「仲良し母娘」関係を築けなかったので、「なんだか楽しそうでいいなぁ(オレには死んでもムリだけど)」と漠然と思っていたのだが、そういう仲良し関係でさえも、母娘関係の本質は安泰というわけではなさそうだ。実際、反目しあっている母娘や、反抗しすぎてひきこもりや摂食障害を発症してしまった母娘だけでなく、一卵性母娘や仲良し母娘も、症例として取り上げられている。だからこそ、「母殺しは難しい」ということなのかもしれない。

しかし、どうして「他者の欲望は受け入れなければならないのに、自分の欲望は捨てなければならない」のが「女性らしさ」なのか? その根底にあるのが、ヘテロセクシズムということなのかなぁ……と思う。

ヘテロセクシズムとは「人間の性関係は、男と女の対こそが正統であり、そのほかは異端である、という偏りを持ったイデオロギー(本文P124より)」だが、女性の摂食障害患者は、ヘテロセクシズムと、ヘテロセクシズムの欲望の対象や主体であることそのもの、そしてヘテロセクシズムが中核をなす生殖に基づく家族主義=「対幻想」を過激な形で拒否しているのではないか。摂食障害事例の多くは、しばしば母親との激しい葛藤を抱えているが、その激しさの根底には、強い女性嫌悪があるのではないか――と斎藤氏は推測する。

そして「対幻想」の主体は男性であり、女性は幻想を投影される存在ではないか――とした上で、環境によっては女性は「対幻想」をあっさり捨てて、ヘテロセクシャルな欲望を否認した状態に長く留まることができる――と主張し、その環境の例として、女性のひきこもり患者や腐女子を挙げているのだ。

つまり女性の摂食障害患者やひきこもり患者、腐女子は、一見何の共通点もなさそうでいながら、いずれもヘテロセクシズムをすんなり受け入れられない人々、ということになる。ついでにいえば、レズビアンは、精神分析的に性倒錯ではなく、父の名への反抗、つまりヘテロセクシズムへの異議申し立てとしてなされる、といわれているのだそうだ。とすると、以前取り上げた、腐女子とビアンのファッションが似てしまうのは、ある意味当然なのかもしれない。

――ところでこの本を読んで初めて知ったのだが、摂食障害患者は圧倒的に女性に多く、逆にひきこもり患者は男性が多いのだという。男性には「社会的成功」へのプレッシャーが強いためひきこもりとなり、そして女性は――もちろん、外見=身体性が絡んでいるのはいうまでもない。

その2に続きます。
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Tags: 斎藤環 ジェンダー フェミ? 第一子長女 腐女子 レズビアン 母娘

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